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ブガッティ :: EXCAR

car:ブガッティ


ブガッティ(Bugatti/布佳迪)は、1909年、イタリア人エットーレ・ブガッティが当時ドイツに属していた(1871年から1919年までドイツ)アルザスに設立した自動車メーカー。その後1987年、1998年と2度にわたりブガッティのブランドが売却され、現在に至っている。3つのブガッティは商標権(ブランド)が移転しているだけで会社に資本のつながりはなく、3社は現在もそれぞれが事業を継続している。 エットーレ・ブガッティの自動車は高級クラスの市販車とグランプリレースでの華々しい活躍のそれぞれにおいて知名度をあげた。この会社は第二次世界大戦後、自動車製造を終了し、部品メーカーとして製造メーカー傘下に下っていた。 1987年、ブガッティのブランドを買取り、ロマーノ・アルティオーリがイタリアのモデナにブガッティ・アウトモビリSpAを設立。ブガッティの名をもつ自動車の製造を再開した。これは長くは続かず、1995年に倒産した。現在、ブガッティ・アウトモビリSpAはパガーニ・アウトモビリとして存続している。 1998年にブガッティ・アウトモビリSpAからフォルクスワーゲンAGが商標権を買い上げ、ブガッティ オトモビル SASを設立。フランスのアルザスに本社を置く。 ブガッティ社の創始者、エットーレ・ブガッティ (Ettore Arco Isidoro Bugatti) は1881年、イタリアのブレシアの芸術家の一族の家に生まれた。彼は若くして多くの自動車のエンジンの設計に携わり、ついに自ら自動車の設計を始めるようになる。こうして生まれた数々の車は彼の名声をさらに高めることになった。さらにエットレはイタリアを飛び出し、当時ドイツ領であった(現フランス領)アルザス地方のモルスハイムに移る。しばしばドイツの自動車メーカーと表記されるのは誤記ではなく、このためである。彼は自動車の革新者として多くのエンジンを設計し、レースの世界ではフランス・グランプリでの勝利を皮切りに、第1回、2回、3回モナコグランプリでの3年連続優勝、タルガ・フローリオでの優勝など輝かしい成績を残した。その後は機関車、飛行機の設計に乗り出したが、商業的に成功しなかった。そして1939年、エットレの息子、ジャン・ブガッティがレースカーのテスト中に事故を起こし死亡したのをきっかけに、会社の業績は下を向くようになる。さらに第二次世界大戦でモルスハイムの工場は破壊され、そして1947年に、エットレ・ブガッティが他界する。その後はLevallois工場で飛行機用エンジンを細々と生産しイスパノ・スイザ社に納入していたが、1968年にスネクマ社(現・サフラン )に併合された。現在はサフラン社傘下のメッサー・ブガッティ社として飛行機のブレーキ・ホイールを作成している。こうして自動車メーカーとしては幕を閉じたブガッティであったが1987年、イタリア人実業家ロマーノ・アルティオーリは突如としてブガッティの商標を手に入れ、ブガッティ・アウトモビリSpA(Bugatti Automobili SpA)を設立。場所はイタリアのモデナ、すなわちフェラーリや、マセラティ、ランボルギーニといったライバルたちの本拠、エミリア=ロマーニャ州モデナ県であった。1989年、ついにその復活プランが発表され、1991年にはEB110 GTを発表。93年にはEB112とよばれるセダンのプロトタイプも発表。当時日本輸入元に選ばれたのはニコル・レーシング・ジャパン。 EB110は3,500ccV型12気筒エンジンにクアッド(4基)ターボを装備し、ドライブトレインをフルタイム4WDとしたスーパーカーであった。当初マルチェロ・ガンディーニによるデザインでプロトタイプが製作されていたが、発表された生産型は自社によるデザインであった。またEB112はジウジアーロによるデザイン。ジウジアーロは、後に3台のコンセプトカー(EB118・EB218およびEB18/3 シロン)のデザインも行っている。 アルティオーリは1993年にはゼネラルモータースからロータスも買収しているが、経営は行き詰まり1995年に倒産した。倒産に至るまでに他メーカーからの陰湿な妨害を受けたことが一因とも言われている。結局、EB110の生産は僅か154台に留まった。その後ブガッティ社の技術者たちはパガーニ社を設立。この苦い失敗を生かしたパガーニ・ゾンダは成功を収めることとなる。 その後、1998年にフォルクスワーゲングループが商標権を取得してBugatti Automobiles S.A.Sを設立。そして、マルチブランド戦略によるグループ再興を掲げるフェルディナント・ピエヒの大号令のもと、ブガッティ・ヴェイロンの製作が開始された。彼は「最大出力1,001馬力、最高速度406m/h」という目標を掲げ、決してこれを曲げようとはしなかった。そのため、試験車両の半数以上はクラッシュし「永遠に完成しないモノの例え」とまで揶揄されたが2005年についに完成した。ワールド・プレミアは東京モーターショーである。日本での総輸入元は再びニコル・レーシング・ジャパンとなった。


Last-modified: 2012-06-21 (木) 15:57:10 (JST) (1888d) by seiichi