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ランボルギーニ・ミウラ P400 [ランボルギーニ/ミウラ/P400] - EXCAR


ランボルギーニ・ミウラ P400 [ランボルギーニ/ミウラ/P400]

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ランボルギーニ・ミウラ P400(Lamborghini Miura P400/蓝宝坚尼・Miura P400), Miura_P400.jpg

ランボルギーニ・ミウラ P400(Lamborghini Miura P400/蓝宝坚尼・Miura P400)は、ランボルギーニ社が開発・製造した2シーターミッドシップ。伝説の闘牛牧場ミウラの名にちなんで命名された。ミウラのドアを全開にし、前から見た姿は正に大きく立った角をもつ闘牛のようである。

トラクターの製造販売やエアコンなどの事業で大成功を収めたフェルッチオ・ランボルギーニがフェラーリに対抗すべく1963年に興したランボルギーニ社によって1966年から1973年までに約750台のミウラが生産された。(フレーム製作を担当したマルケージ社の記録では747台。)

ミウラは、ベルトーネによる流れるようなスタイルの2シータークーペでV型12気筒を横置きミッドシップに積み、発表時のプレス向け主要諸元によれば350馬力のノルマーレ仕様でもわずか980kgの車体を最高速度300km/hまで引っ張るとされた(実測データはミウラSで278km/hというデータが残っている)。 当時12気筒の大排気量をミッドシップに積んだクルマは前例がなく、自動車業界のみならず世間までも大騒ぎとなった。のちに各メーカーともこれに倣わんばかりのスーパーGTを登場させ、ミウラはデ・トマソ・マングスタとともにミッドシップ・スーパーGTの創世記的なクルマとされる。 ミウラは1965年のトリノショー(11月)で発表され、期待のかかった4リットルV12をミッドに載せたベアシャーシTP400に1966年3月のジュネーブショーでボディを架装し発表されるや、当時ベルトーネに就任したばかりのマルチェロ・ガンディーニによるその流麗なスタイリングが注目の的となり100を越すオーダーが殺到した。1967年から生産体制を一応は整えたが、その時点ではまだリアヘビーによるハンドリングの欠点、パワートレーン系が出す盛大なノイズ、冷却性能、などいくつもの問題が解決しておらず、たくさんのバックオーダーを抱えたランボルギーニはしかたなくミウラの生産を続けながら改良を加え、最終的にはリア・サスペンションほかに大きな改良がされたSVと呼ばれるモデルで完成の域に達した。 当時ミッドシップスポーツはいくつかが市販されていたが、ミウラのような大排気量で横置きのものは初めてで開発は難航した。シャーシ設計およびミウラの開発プロジェクトの発案者はジャンパオロ・ダラーラ。ジョット・ビッザリーニ設計のランボルギーニ・1号エンジンをベースにミウラ用に改良したのはパオロ・スタンツァーニ。シャーシの製造はランボルギーニ1号車(350GTV)からその製作を請け負っていたマルケージ社。ボディの設計、デザインはカロッツェリア・ベルトーネで、当時あたり前のようにミウラはジウジアーロの作品であると出版物に書かれたが、実際の原案スケッチから始まる一連の作業はすべてマルチェロ・ガンディーニであった。ただし、そのスピリットとしての原案はカロッツェリア・ベルトーネとして進めてきたこれまでの作品、カングーロ、テスチュード、さらに、1964年にジウジアーロがISOを想定して書いた架空のミッドシップカーの正面図と側面図を元にしたと言われる。 流行のボディスタイルが流線型からウェッジシェイプへと移る過渡期であったことと、ベルトーネ・チーフスタイリストの交代劇が重なり、ミウラのデザインはジウジアーロかガンディーニかで繰り広げられる「ミウラ論争」はいまだに決着がつかないが、Ford GT40にインスパイアされたジャン・パオロ・ダラーラ、ベルトーネの2人のチーフスタイリスト、ジョルジェット・ジウジアーロ、マルチェロ・ガンディーニ、開発側のパオロ・スタンツァーニ、ボブ・ウォレス、そして社長フェルッチオ・ランボルギーニ。誰一人として欠けていたら、今あるミウラは生まれてこなかったと言える。

ミウラは1965年11月にトリノで開催されたトリノショーにシャシーとエンジンのみの試作モデルが展示された。ボディーがなかったばかりでなく、ミウラという名前もまだついていなかった。当時ミッドシップエンジンはデ・トマソがヴァレルンガで発表しているくらいで他のメーカーではFRレイアウトが通常だった。まだ珍しいミウラのこのタイプは、ボディーなしでも非常に注目を集め、その後、欧州レーシングチームのシャーシとしても使われた。スポーツカーレイアウトの標準となるのはミウラが契機であった。

ジャンパオロ・ダッラーラがシャーシの完成度をあげる一方、ボディはデザインだけでなく製作も担当するという契約でベルトーネに任された。当時ベルトーネのチーフデザイナーは前任のジウジアーロから交代したばかりのマルチェロ・ガンディーニであった。 翌1966年3月ジュネーヴ・モーターショーに流麗なボディを乗せてミウラが登場する。著名なスペイン闘牛飼育家ドン・アントニオ・ミウラにちなんだ名前だ(これ以降ランボルギーニは闘牛関連の車名が続く)。ミウラのヘッドライトは点灯時のみ前方に浮き上がるポップアップ・ヘッドライトを採用していた。 フェルッチオ・ランボルギーニは「ミウラはショーカーであり、ランボルギーニの他の車の販売促進に役立てばそれで充分」そして「生産は30台程度」と考えていた。実際、生産中の車の販売も良くなったといわれている。 市販車として考えられていなかったミウラの当初の完成度はけして高くなかった。ランボルギーニの公式な区分としてはP400、P400S(単にSともいわれる)、P400SV(同様にSVとも)と3つの時代に区切られるが、実際のミウラはその全期間を通じて一台生産する毎に完成度を高めて現在に残る名声を勝ち得ている。つまり、変更は毎回なされ、それは機能改良ばかりでなく誤りの修正もあった。これはイタリア小規模メーカーにはよくみられることではあり、同時期作られたエスパーダにはこのようなことがないといわれている。

ミウラは市販車として販売されるまでに何度も変更を繰り返したが、顧客が一刻も早い市販を望んだため、その要望に答えるために細かなサスペンションセッティングなどが決定されないままで発売されてしまった。また、LSDの採用も見送られた。これはミウラのエンジンとミッションが潤滑系を共有する構造ゆえ(初代ミニも同様で、これはモーターサイクルでは常識的な設計 )のもの。結果、ミウラは高速走行時のフロントの落ち着きに欠け、コーナーでは急激なリバースステアに見舞われることもあったという。 販売されたミウラの最初の一台は1967年3月に製作されたものである。名前はP400とされた。Pは"Posteriore"(後ろ)でエンジンが後ろに位置していることから、400は排気量4L(3,929cc)の意である。350馬力出力のエンジンでわずか1,075kgの車体を最高速度290km/hまで引っ張った。ランボルギーニは当時はまだ風防実験ができるほどではなかったが、ニュージーランド出身の開発テストドライバー、ボブ・ウォレス(Bob Wallace:1938-)がこれに貢献している。彼は21歳でイタリアに渡り、ランボルギーニに来る前はフェラーリやマセラティでレーサーとして活躍していたがマセラティで一緒だったジャンパオロが1963年に連れてきた。

ランボルギーニ・ミウラは扱いにくいことで有名だが、メンテナンス・サービスだけは別で、ベルトーネの設計はこの点がよく考えられていた。ミウラP400は、1967年に約110台(108台とも111台ともいわれる)が、そして1969年までに計475台のミウラが作られた。



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